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INTENTION

脈絡のない料理とは その想いと思考

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​二項対立からの脱却

まず最初に、料理を食べる時に考えがちな「おいしいか、おいしくないか」という二項対立の思考に対して疑問を感じたのが始まりでした。どうしてこの二項対立が食事という行為の前に立ちはだかるようになったのか。そんな思いから食べるということは何なのか、そして食べることで人はいったいどんなことを感じるのかということに興味を抱いたのです。

 

もちろんこのことには多角的にいろいろな視座を持つことが必要で、一様にこうだからと説明できるものではありません。ですので普段ぼくはこの「食べるという行為」を通じて、食文化の歴史やそれに伴うあらゆる事象を繋ぎ合わせようと研究をしているのですが、ここではその研究のお話は一旦傍に置いておくとしよう。そしてこの会がどうやって「おいしいか、おいしくないか」という二項対立から抜け出そうと思い、どのようなことを試みたのかをお話したいと思います。

 

本来人は食べるという行為を通じてこの二項対立以外にも知覚的にいろんなことを感じ取れるはずです。例えばそれは食べ物であるかどうかであるとか、腐敗や毒といったそれらが安全に食べられるものであるかといった原始的で本能的な感覚もそうですし、味覚や嗅覚といった五感だけで何かを感じ取るのではなく、過去の記憶にアクセスするだとか、ある情景や景色を思い浮かべるなど、より感覚的なことであったり、或いは思考するといったこともそうかもしれません。そしてこの二項対立に絞られた思考を生む背景には「今、口にしているものが何か」ということに意識を向け過ぎていることが挙げられると考えたのです。

 

ぼくたちは外食でも何でも、「食べ物の説明」を受け過ぎている。そしてその説明を受けることに慣れ過ぎてしまった結果、ある種の無思考状態になっていると考えたのです。ぼくたちの味覚における判断は、そのほとんどが経験的なものに由来します。そしてそれらの経験を元に相対的に判断します。

これではせっかくの「食事という行為」から得られるはずのあらゆる感覚を自ら半減させてしまっているではないだろうか。そう思ったのです。

 

やれどこそこで獲れたものだとか、誰それの野菜だとか、おまけに、まるで競い合うかのように、"特別であること"をこれでもかと言うほど話してくる。本来食事は、そんな説明を受けなくとも楽しめるはずだし、そもそもどんな風にに受け取るのかも含めて、もっと自由でいいはずである。

そんなことを思った時、自身が提供する料理について、目の前に出された料理の説明や、使われている食材についても、何も話さないことにしたのです。これはつまり「今、口にしているものが何であるか」ということが、この会において、ほとんど意味を持たず、さほど重要なことではないという風に考えたのです。

経験値や知識が多ければ、"それが何か”が分かる人もいるかもしれないけれど、使われている食材を当てたとしても、調理法が分かってとしても、それはただ"その事実に正解した"に過ぎないのです。そもそもその正解に意味はない。

​食べ手に主体をおいた体験

そこでここに言葉「詩」が登場するのです。想像してみてください。本が好きな人もそうでない人もいると思いますが、人生の中で1冊くらいはきっと読んだことがあるかと思います。ぼくは本を読む時に、どこまでも"読み手に自由が与えられている"ということにとても心地よい安心感のようなものを感じていました。物語の作者は、おせっかいに、やれこれはこうだ、ああだといちいち説明などしてきません。読み始めから読み終わりまで、思考するのは読み手である自分だけです。

 

『CONTEXT DESIGN』の著者、渡邉康太郎氏も著書の中で書かれていますが、"優れた小説は100人の読み手がいれば100通りの解釈がある"とあるように、本を読むという行為にはどこまでも読み手に自由が与えられています。よくよく考えてみれば、音楽だって美術だってそうです。聴く側や見る側に正解を押し付ける作者はほとんどいないのです。

どうしてか料理人という作り手は説明を好みます。それも事細かく、人によってはこんなに苦労して作ったんだと言わんばかりに丁寧に仕込みの話をする人すらいます。ぼくはその在り方に大いに疑問を感じ、野暮ったく感じたのです。

 

だから脈絡のない料理をはじめとしたぼくの会では、目の前に出された料理の話はまるでしません。最初戸惑う方もいらっしゃいます。つい癖で聞いてしまうのです。「これ、なんですか?」と。でもぼくはいつも決まってはぐらかします。「何でしょうかね?」と。これはつまり正解は食べ手のみなさんの中にあればいいわけですから、そんなこと別に考えなくたっていいということでもあります。

 

酸っぱいとか甘いとか、それすらも個人差があって当然ですし、そもそも食事を味覚というひとつの感覚だけで味わう必要もないのです。「 "間違えたら恥ずかしい" という間違った感覚 」を植え付けたのは紛れもなく正解という名のもとにべらべらと説明をしてきた料理人の功罪が大きいとも言えます。本を読むように、音楽を聴くように、自由な感覚でいろんなことを想起し、いろんな思いを口にしていいのです。

トリガーとしての役割、記憶と記録

 

脈絡のない料理という名前には、人生のありとあらゆることが、脈絡のないことの連続であるという考えから、全く脈絡なく描かれた言葉の連なりから料理を作ってみようと思ったことに起因します。

 

ここで"詩"という言葉を用いたのは、何かトリガーのようなものになればいいと思って詩をそこに置いてみることにしたのです。これはあくまでも手段です。詩も料理も、ぼくにとっては数ある手段のひとつでしかありません。

 

そして詩を書くことにしたのにはもう一つ理由があります。それが「言葉が残せるものと、消えゆくものをどう記録するか」というぼくの制作における大きなテーマです。料理は食べたら消えてなくなります。それを儚さと捉える人もいるかもしれませんが、ぼくは幼少期の頃からの蒐集癖から、どうにかしてこの " 料理を食べたという事象や感覚 " を形あるものに残せないかと考えたのです。

それがこの脈絡のない料理の中で登場する短い詩たちです。これらの詩は、全く料理とは関係ありません。脈絡なく描かれた詩をもとに料理を作るので、詩が出来た時にはまだ料理はありません。結果的に詩と料理は繋がるのですが、この詩は料理を作ることを前提には書かれていないので、詩だけを読んでも料理を彷彿することはできません。唯一その料理を食べた人だけが、食べるという行為を通じて詩と料理の関係性を感じることができます。もちろんその感じ方は先に述べたように食べ手に委ねられています。

 

この脈絡のない料理の中の詩は、詩だけでは全く料理と関連付けることは難しいのですが、その詩の背景には"たしかに料理があった"という事実だけが残りつづけます。ぼくが残したかったものは、"どうだ、こんな料理を作ったぞ"とい ったような事実的な事象ではありません。言葉を紡ぎ、料理を作り、食べ手がいる。その中で、微かに、僅かに、そこにかつて食べ物があったかもしれないという思いだけが、言葉として残りつづけるのです。

 

 

ぼくが残したいもの、ぼくが表現したいもの、それは結局のところ具体的な何かではないので、何かと言われればとても難しいのだけど、やはりぼくは、人が何を感じるのか、感じ取ることができるのかという心の内側を、広くて大きな空間として捉えたいのだと思うのです。それがぼくにとっての表現の核であり、体験者に主体を置いたこの「脈絡のない料理」という会のいちばん大切なメッセージかもしれません。

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