鈴木ヒラク(現代美術家)
× 北嶋竜樹
2024年10月6日(日)
会場 IDOCHA KYOTO
1 分断されたもの
─── 漆器吸物椀(杉田明彦)、水(97mm x 105mm)
2 連続と接合
─── アルミ版、野菜、肉、魚 (455mm × 910mm)
3 追憶
─── 大皿(鈴木ヒラク)、天然茸、小麦、水
4 味覚の足跡
─── 桐生和紙、ソース他 (620mm × 920mm)
上記の4つのセクションに分けて供された。食事の最後はアルミ版に重ねられた食事の痕跡を和紙に染み込ませるインスタレーションを行った。











差延する言葉、存在しない線、
食べられない料理。
例えば目には見えない境界がそこにあったとして、目を閉じてその境界を指で擦ってみるといい。瞼の裏に映る残像や、指先から伝う振動は、まるでそこに線があるかのような感覚を覚えるだろう。私たちはどこまでも言葉の持つ意味や印象に影響を受ける。本来言葉には色も香りもない無色透明、無味無臭なものであるが、脳内で再生される映像は言葉の持つ意味や印象の強弱によって、色をつけたり、光ったり、時には飛んだり跳ねたりもするのだ。
人間は共通する意味を与えた記号を作って、その記号によってコミュニケーションを図り、進化してきた。記号化された情報はやがて文字になり、言語になり、言葉によって視覚化された膨大な情報の中を生きている。
私たちは今当たり前のように”線という言葉”を知っており、その意味を理解しているからこそ線をイメージできるのだ。当然意味はもちろん記号化された言語そのものを知らなければ、そもそも”それ”が何を意味しているものなのか、ということもわからないのである。もし、線という言葉や、それに置き換わる記号や文字や言語がなかったとしたら、この世の中には線は存在しないのかもしれないのだ。
「語りえぬものについては,沈黙せねばならない」という有名な言葉がある。この言葉はオーストリアの哲学者ウィトゲンシュタイン(1889-1951)が生前に刊行した唯一の哲学書である『論理哲学論考』の中で最後に残した言葉である。
形而上学では有形の現象の裏側にあるような存在や神、精神といった抽象的な事柄について言葉を尽くして語り得ようとしてきたが、本書の中でウィトゲンシュタイン自身が「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」とも残しており、これは言葉の領域の外側にある概念についてはいくら語り尽くしたとしても言葉では言い表すことも出来なければ、理解したことにもならないということである。
解剖学者の養老孟司さんが、世の中のあらゆる誤解や欺瞞に対して、人間の持つ思考の限界を『バカの壁』と呼んだように、現代社会において僕らは容易く「わかる」という状態に達してしまうこともひとつの問題である。本来「わかる」という状態がどんな状態を指すことなのかを理解することは非常に難しいことである。例えば「科学的根拠」という言葉が散見されるようになった背景には、科学を絶対的なものとして妄信する側面が生じているということでもあり、本来科学は自らに対する反証可能性を認めている「相対的言明」であるにもかかわらず、宗教にみられるような「絶対的言明」としての側面を纏うことで矛盾が生じてしまいます。これは宗教と引き換えに力を付けた近現代の科学の知見が、本来の客観性を失い宗教的な視座によって語られてしまうことによる矛盾です。科学的な視点での推論と事実の間には何かしらの差異があり、客観性を帯びた情報だけを信じることによって、刷新できるはずの自己の情報を更新できずにいたとすれば、それも一種のバカの壁である。
このように「言葉とは何か?」という問いに向き合うことは、「線とは何か?」を探究している鈴木ヒラクさんの考えと重なる部分でもあり、「線は存在しないかもしれない」と考えることもひとつの可能性を探る意味では私にとって大事な思考プロセスであります。
彼は著書の中でも洞窟に描かれたドローイングや文字になる前の何かや記号は、やがて人や社会を接合し、同時に土地や精神を分断してきたということについても触れている。それはつまりインターフェースである。「線という見えない何か」や「言語のようなもの」は、人や社会や国境に至るまで、ありとあらゆるものの中に潜んでおり、それらが媒介者となり結合したり分裂したりしている。そして線はチューブ(Tube)でもあると。
『モア・ザン・ヒューマン: マルチスピーシーズ人類学と環境人文学』(以文社/2021)に集録されている石倉敏明さんのインタビューの中で、「外臓(がいぞう)」という言葉が使われているのですが、その中でこのように答えています。
「考えてみたら、自分の体の内臓は、口と肛門を通して一つのチューブのように外部に開かれています。その内臓を、手袋をひっくり返すように拡張してみたときに、食料や他の生物とつながっている目の前の風景は、自分自身の内臓と地続きの空間と捉えられる。自分の目の前にある風景は、自分の内臓を外側にひっくり返した身体の延長として捉えることが可能なんじゃないか。「外臓(がいぞう)」という概念を思いついたときに、そんな具体的なイメージが浮かんできました。」
ーー外臓(がいぞう)と共異体の人類学
More-Than-Human Vol.7 石倉敏明 インタビュー(聞き手:唐澤太輔)より引用
石倉さんもこのインタビューの中で、チューブという言葉を使っていますが、ヒラクさんの考える「線(チューブ)」と同様に、食べるという行為は、身体がインターフェースとなって外的自然と内的自然を繋ぐ役割を果たしています。つまりそれは外的な要素(essence)を内的に内包するということであり、感情や性質といった精神性も、この外臓(がいぞう)から内臓へと地続きになったひとつの大きな自然の中で相互に影響し合い拡張していきます。私が「neutral」を始めた時に掲げたコンセプトの中に「内的自然」というものがあったのですが、外的なものが内側にどう影響するのかということを、物質的な視点だけでなく、行動や思考が伴う性質的な側面、それこそ精神性も含めて体験として検証できないかと思っていました。例えば怒りや悲しみが食に与える影響というのは、科学の視点からはおそらく解明できません。「料理は愛情」という言葉に代表されるような手作り料理と、ファストフードなどの安価で効率を求める料理、冷凍食品などの寒食を栄養学的な視点や数値で図ることは出来ても、所謂「心の栄養」といった精神性を帯びた観点から比較検証することは実は難しいのです。
昨今のオーガニックブームもそうですが、家庭的で健康的な料理が好まれる傾向にある一方で、社会の構造は無味乾燥な効率化を突き進んでいますし、怒りや悲しみの感情で溢れた環境で食べる無添加食品と、幸せで楽しい空間で食べるジャンクフードのどちらがはたして健康的かと問われると、一体全体よくわからなくなるのです。矛盾を孕んだこういった問いに対して、どう向き合って、どちらがどのように心身に影響するのかということに僕らは本当はもっと意識を向けるべきだと思ったのです。
料理とは人類が自然と対峙した歴史にあります。それは人類が初めて洞窟に描いたドローイングと同じように、人と自然との間に隔たりが生まれた瞬間でもあります。弱さを自覚した人類は、過酷な生存競争に立ち向かうべく、ドローイングを描き、言葉を生み、料理をしてきたのです。
そして最後にもうひとつ、食における大きな問題としてこのことにも触れておきたい。どうして私が言語や言葉と食を紐付けようとしたのかということですが、これは最初に触れた「言葉は本来無色透明、無味無臭なものであった」ということに起因します。意味に囚われた瞬間、言葉は香りを纏い、甘くも苦くもなるという話は、料理につきまとう美味しいか美味しくないかという問題と非常によく似た性質をもっています。これは形而上学で階層秩序的二項対立からの脱却を図ったデリダのパロールとエクリチュールの脱構築のように、食におけるこれらの二項対立にも脱構築が必要であると考えました。この考えは美味しさを無視したものづくり(料理)ということではなく、そもそも料理には美味しいも美味しくないもないということであり、料理の本質とは全く無関係であると考えたのです。言語の話と同様に、人はどこまでも経験則に従って思考します。これは決して経験に頼ることを否定しているのではなく、経験的思考に頼らない瞬間にこそ本来の自身の感性に直接的に気付く最大の機会であり、初めて洞窟に描いたドローイングのように、ひとつの食体験が新しい線を描いていく道筋になればと思っています。
そこにあった光は、反射や屈折を繰り返して
やがて暗闇へと吸い込まれていった
光は真っ黒な空気となって
元の輝きを失って消えるのだ
どこまでも実体のない空間を
ふわふわと浮遊するように
存在するものから、存在しないものへと
蓄積と消耗を繰り返す
そこに「線」がないように、記号化された知覚は
ただ外側と内側を行ったり来たりする
食事は心の静謐を写しとる
リチュアルみたいなものである