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​祈りの先にあるもの
neutral × wakamatsu
2021年9月19日20日・23日24日25日
会場 wakamatsu(長野県塩尻市奈良井)
祈り

祈りとは本来人間の本性として

備わっているものであり、

人は祈らずにはいられない生き物なのです。

祈りは“願い“や“念力“ではなく、

現実を作り出す行為です。

心の中の出来事が現実世界を作り、

他者との繋がりや、自然との共生、

そして調和のとれた世界といったもの全ては

祈りがもたらします。

だから私たちは祈るのです。

祈りは最も止めてはいけない

人間の本性であり知性です。

祈りの先にあるものは現実です。

私の、あなたの、祈りが世界を象っています。

醜くて当然で、美しくて当然なのです。

それらは本来一体となっているものなのですから。

だから私は祈るのです。

neutral   北嶋竜樹

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01  祈りのはじまり

奈良井には六カ所の水場があります。湧水の出る場所には祠が建てられ、湧水の恵みに感謝し水の神が祀られています。古くから水には神が宿るとされ、神聖なものとして信仰の対象になってきました。豊かな自然や人々の営みの根底には水があり、全ての命の根源でもある水は、祈りのはじまりでもあります。

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03  山の神

私たちは、あらゆる命を奪いその命と引き換えに存在しています。奪った命の責任をどう取るのかということは、私たちにとって無視できないことのひとつであります。この作品は、私たちの心身があらゆる殺生のもと保たれていることを、咀嚼する味覚体験から認識する作品です。命をいただくということはつまり生きることであり、咀嚼し、飲み込むという行為と、それにより心身が満たされていくことの間には祈りが媒介し、身体に取り込まれたものたちが、外側と内側の世界で全く差異がなく、一続きであるということを認識することができます。「いただきます」という言葉は、食と祈りを繋げる象徴的なフレーズですが、この言葉は、奪った命への弔いの言葉であり、八百万の神々への祈りであり、祖霊信仰の時代から、物質世界も精神世界も垣根なく外と内を繋ぐ装置の役割を果たしています。

05  二百地蔵尊

応神天皇を祭神とする八幡神社の横に整然と並ぶ二百体の石像があります。ほとんどが観音様ですが、これらの地蔵尊は、明治時代に鉄道施設や新道の開削のために、撤去され行き場の失った石像達が集められたものです。作られた年代も違えば、作られた意図も違うため様々な表情が伺えます。この作品は、本来の目的から外れた石像が、ここで祈りの対象として存在していることの意義を説います。人は古来から祈りの対象を目に見えるものに宿すことで、信仰を拡大させていきました。本来祈りの対象は見えない存在であり、可視化・偶像化することで、人々の意識や信仰心をその対象へと向けてきたのです。この作品では、石像を手に取り食すことで、祈りの対象がどこに存在していても変わらないということを自ら体現することができます。

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月夜 / 阿里山高山茶

月夜に見立てた蝋燭、月夜に見立てた茶、真っ暗な暗闇の中、奈良井の夜の静けさの中、朧げになっていく記憶と輪郭のない味わいが、溶けてひとつになっていく。そこにあるのに、そこにない。目の前にあるものは幻想か現実か。月夜に照らされると、祈りが、私が、つかみどころのない空気の中、ゆらゆらと浮遊するのです。

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02  呼応する土

 

天からの恵みである雨や雪は、地表を流れ川や海となり、地へと沁み渡った水は地下水となり、やがて湧水となります。どこを流れ、どこに染み渡ったのかで、その水の有り様は変わります。奈良井の水が清らかで透き通っているのは、美しい土壌のおかげです。また奈良井の自然が豊かで多様性に富んでいることもまた美しい土壌のおかげであります。このように、豊かな自然がもたらすものは、土が外界に触れ、互いに影響し呼応することで生まれていきます。土は生命の循環を表す象徴であり、あらゆる弔事と慶事が綯い交ぜになった祈りのかけらといえます。また土を食べるという行為は、どこか原始的でありながら、内なる知性を呼び起こし、自然と一体となり、自らがその循環の間に存在しているということを感じることができる装置のような役割も果たします。

04  隠れキリシタン

奈良井宿の中ほどに位置する大宝寺に安置されているマリア地蔵をモチーフにした作品。祈りを主体とする信仰についての問いかけや、祈りの本質がどこに存在するのかを思考するための作品です。「隠す」ことで、物事の本質は表層からは見えない内側にこそ本来の姿が映し出されるということを、木製のガラスケースに散りばめた奈良井宿の野草や野花、舞い落ちた枯れ葉に模した野菜の中から探ります。また、木製のガラスケース自体が棺でもあり、祈りの対象でもあり、歴史に向き合い弔うという意味も持ちます。毎日摘んだ野草や野花は、枯れ朽ちていくものと重なり、生命や思考は常にその中間に位置していることを表しています。

06  十六夜 (いざよい)

ためらうの古語である猶予う(いざよう)に由来し、中秋の名月十五夜の翌日、ほんのわずかに、少しの「ためらい」をもって現れる月の様子を十六夜(いざよい)と呼ぶようになった。月ですらためらうのだ。私たちがためらわないわけにはいかないのです。祈りとは「ためらい」がきっかけとなり、気づきとなり繰り返されます。あらゆる愚行が祈りによって美へと翻訳されるのは、私たちは常に、生と死の中間に位置していることを意味し「ためらい」のない世界に祈りはないという証明でもあります。

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